(1)
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「Den lille Havfrue」……
嵐の海で助けた王子に恋をして、陸に上がるため声と引き換えに足を手にする人魚姫。
だが、王子の館で生活するようになっても自分の恋を打ち明けることが出来ず。そうこうするうち王子は隣国の姫に心を移し、失恋した人魚姫は海の泡になって消えてしまう——
誰でも知っている有名な童話である。
だが、あまりに悲しい結末に、それを書き換えようと言う動きもあった。21世紀に書かれた同名の童話の幾つかは人魚姫が声も地位も取り戻し、王子と幸せになる筋書きのものである。だが、これはかなり古い本だ。内容も、ほぼ原書と変わらないに違いない…
悲しい結末。
「まあ、ね…。だから、君が悲しくなっちゃうんじゃないかと思ってさ…」
電子データブックにも載っているはずのストーリーだが、そっちなら題名を入力して検索しない限りは出て来ない。しかし、これは「紙の本」。これ一冊に、このお話しか載っていない。
……止めたって、きっと読まずにはいられないのだ。本というのは元来、そういうものなのである。
「しょうがないな。……俺、ちょっと庭散歩して来るよ。一緒にいると邪魔しちゃいそうだから」
「…あら、いいのに」
「いや、…腹ごなしにちょっと歩いて来る、君はゆっくりその本、読んだらいい——」
諦めて、大介は笑うと腰を上げた。
コロニーの夜空には、地球から見たおなじみの星々はない。
昼間には、天蓋の内部にその日時の気象状態に合わせて編集された、日本自治州・長野の空の映像がエフェクト投射されるが、夜間、映像の陽が沈むと透明度98%の硬化テクタイトで出来たコロニーの上部天蓋はそのまま漆黒の外宇宙を透過して見せる… 月のように見えるのは、軌道の近い火星か木星であり、天の川のように見えるのはアステロイドベルトなのだった。天蓋の外は真空の宇宙だから、それらが「瞬く」と言うこともない……
が、所々、近くに星のように瞬いて見えるものがある。コロニーの天蓋を支える骨組み…<フレーム>を繋ぐジョイント部分の保安灯である。無粋な等間隔の保安灯だが、横軸と縦軸に光るライトの種類がランダムに変えてあり、よくよく見なければ人工物とは解らない。点滅の加減と色で、それはプラネタリウム映像の、星座のようにも見える。
人の住むコロニーだ…地球から遠く離れていても、故郷の夜空を思い出せるような、最低限の演出は施されているのである。
——人魚姫、か。
点々と夜空に瞬くその星々を見上げ、大介は小さく溜め息を吐いた。
——人間と、海の底の異種の人、…人魚との恋。
どうしたって、誰かさんと誰かさん、みたいな感じは否めない。引き裂かれて恋が実らないのも、なんだか過去の嫌な思い出と繋がりそうで、大介は自分自身が落ち着かなかったのだとふいに思い至る。
ふふ、と笑いが漏れた。
やだな。あんな童話程度でおろおろしていたら、他に悲しいストーリーなんか無数にあるんだ。本なんか読めなくなっちゃうじゃないか。
(第一、俺たちがくぐり抜けてきた話ほど過酷なストーリーは… なかなか無いよ…)
たった数十分の間に、我ながら呆れるほど深く嵌り込んだ恋だった。
それが恋だと自覚する頃には、君は手の届かない人になり…… 一度は死に別れたと、諦めたのだ。今こうして一緒にいられるのは奇跡としか言えなかった。この現実に比べたら、過去のどんな名作物語だって色褪せて見える。
(…でも。人魚姫の童話が、どうしてこんなに気になるんだろう?)
ハッピーエンドで終わらない童話だから?
突然、天蓋に光る星が……じわりと滲んで見えた。
(あれ?)
何泣いてんだろ、俺。
庭と外とを申し訳程度に隔てるみたいに植えてある、小さな生け垣までぶらぶらと芝生の庭を横切って、そこから我が家を振り返った。一階の窓から、カーテンを閉めていない部屋の灯りがそのまま四角く庭に落ちている。窓辺には、本に目を落しているテレサがいた。
その彼女の横顔を見ながら大介は、避けようのない現実を思い出した。
(そう言えば……泡になって先に消えるのは、俺だったな……)
俯いて本を読む彼女の横顔を見つめながら、唐突に浮かんだ思いにいたたまれなくなる。
大介は思わず目を背け、もう一度漆黒の天を仰いだ……
悲しい童話はいくらでも書きかえてしまえる。けれど、現実はそうは行かない……俺と彼女との話は、書きかえが利かない。
泡になって消えて行った人魚姫は、幸せだったんだろうか。
自分はずっと、あれはただの悲恋だと思っていた…消える張本人の気持ちになって考えたことなんか、一度もなかった。
だけど、この自分が愛する人より先に消えて行かなくてはならないとしたら… 相手の幸せを願って消えて行くのでなければ辛過ぎる。
そうでなければ残される相手も辛過ぎる…。
(…バカじゃないのか、俺は)
自分が、テレサを残して、消える。
それは、地球人としての100年に満たない寿命を持つ自分と、テレザート人類としてのおそらく数百年の寿命を持つと思われるテレサとの、分かり切った…未来。
…だとしても、そんなの何十年も先のことだ。今考えて悲しくなってるなんて、馬鹿馬鹿しいにもほどがある……
そうは思っても、大介はどういうわけか滲み出てしまうものを目尻から追い出せずにいた。考えたくなくても、ふとした拍子に思い出すのだ……
地球で不自由な生活を強いられていた彼女を、このコロニーに連れて来てようやく、自由な生活へと解放してやれた。安心したからなのだろうか……、次第にその思いは強くなって行った。
今から20年後、30年後。
ある日俺は、横にいるテレサと親子ほども年の離れた老人になっている—— そしてやがて一人、枯れるように死んで行くのだ、若く美しいままの君を残して。
その頃になったら、…誰か、君を大切にしてくれる男を見つけて、もう一度幸せを掴んでくれたらいい。そう言いたい所だが、自分の代わりに君を愛する男を見つけろと…? 自分はそれに納得出来るんだろうか。いや、第一そんなことを…君に言えるのだろうか。
この自分の、当然の思考回路に従えば。
——自分が確実に彼女を残して先に死ぬと解っているのなら、納得してテレサを任せられるような男を見つけるのは、己自身の責務だった。何の計画もなく、彼女を一人残して行くことは出来ない、人生設計は船の運行計画と同じだ。逆算して計画を立ててかなくては絶対に上手く行かない——。
(……ああ、だけど)
そんな計画を、立てられるもんか…この俺が。
——畜生…!!
「……島さん…?」
突然背後に彼女の声を聞いて、大介は身を強張らせた。
いつのまにそばに来たんだろう?
いい匂いの髪がふわりと右肩に寄り添う。
慌てて鼻を啜り、無理矢理笑顔を作った。
「…あの本、もう全部読んじゃったの?」
テレサはすぐには答えずに、大介の背中に額をつけた。白い両腕が後ろからそっと大介の身体を抱きしめてくる。
「…いいえ、まだです」
「どこまで読んだ?」
「王子様が、隣の国のお姫様と式を挙げるところ」
「それじゃ全部読んだようなものじゃないか」
「…………」
「悲しい話だろ…」
大介は苦笑してそう言ったが、テレサは返事をしない。後ろから回された彼女の腕を包むように優しく撫で、ぽんぽん、と叩く。背中に抱きつく彼女の体温が、夜風に冷えてきた身体に心地良かった。
「……あの人魚姫は、幸せになれるのですか…?」
読めばわかるだろうに。
なぜそれを俺に訊くんだろう…
「…あともう少しじゃないか。俺が結末を教えちゃったらつまらないだろう?」
「…………」
テレサの両腕が、少しだけ、きつく大介を抱きしめる。
「…声を犠牲にして… やっと陸へ上がったのに、…どうしてあの人はただ泣いているだけなのでしょう…?」
自分が彼の命の恩人だと、なぜもっと必死に伝えないのでしょう。
隣国の姫に心を奪われる王子様を、どうしてただ泣いて見送ってしまうんでしょう…
「……原作者が、悲恋に生きた人物だった、っていうのをどこかで読んだことがある。だから、物語も悲しい結末にしたんじゃないか、って」
「………」
大介の答えを聞いていたのかいないのか。テレサはやはり黙ったままだった。
なんだ。
ほとんど全部読んだんじゃないか……
読んでいないとしても、それは最後の1ページ、ってところだろう。
大介がそう言おうとして肩越しに彼女を振り向いた…その瞬間…
テレサが、思いもかけないような声音で、…言った。
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