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外科病棟と小児病棟をつなぐサンルームの片隅のベンチに、雪乃は腰かけていた。
休憩時間には、昼食を摂るつもりだった。だが、売店で買ったサンドイッチを膝に乗せたまま、サンルーム内の小さな菜園にぼんやりと視線を注ぐ——
歩は昨日のうちに、予定されていた養護施設へと連れられて行った。
迎えにやって来た施設の職員は初老の女性で、決して人当たりの悪い感じはしなかった……だが、その施設の位置する場所を聞けば、メガロポリスから東へ70キロほども離れた過疎地にある…という。もうおいそれとは…会いに行けない。
島からもらった、彼の弟のお下がりを箱一杯詰めて施設宛に送り、歩には自分の少ない給料からありったけの学用品を買って持たせた……これから行く施設で、肩身が狭いだなんてことのないように。
約束する。
かならず、会いに行く。
お姉ちゃん、絶対、迎えに行くからね…!
そう言ったら、あの子…笑ってた。
「いいよ、お姉ちゃんは島さんと結婚するんでしょ。僕がいたらお嫁に行けなくなっちゃうでしょ」
だって大きくなったら僕、ヤマトの乗組員になるんだもん。
強くなくちゃ、駄目なんだ。
だから、一人で全然平気だよ…!
あんな小さいくせに、変な気ばかり遣って……。
歩がいなくなって、心にぽっかり穴が空いたような気がした。できることなら、ついて行ってやりたかった。
だが、島の言う通り、自分のしようとしたことはあまりにも馬鹿げていた。
(…島くん… 本気で困ってた)
困り果てて「考える時間をくれ」と言ったきり、彼はモバイルにも連絡をくれない。
(……愛想、尽かされちゃったかな…)
…だとしても、仕方がないのだ。
馬鹿なこと、言っちゃった。
大体、最初から解ってた……あの人は、ヤマトのクルーだ。ということは、そもそも…地球で待っていた私たちとは違う、選ばれた人たちの一人、ということ。
立派なご家族に輝かしい地位。
かたや私は孤児で貧乏な看護婦見習い。
菜園の緑の中に並ぶ、小さな手描きのプレートを目で追った。
「タマゴナス」
「ミニトマト」
「カブ」
「ムラサキダイコン」……歩が、ひとつひとつ名を呼びながら、指差して歩いていたことを思い出す。
地下都市だから、今までは冬でも気温は一定に保たれていたものが、ついに始まった地上への移住のため、このサンルームの気温も低くなっている。小さな菜園の緑は、僅かに芽吹いたまま成長を止めていた。侘しい緑の中に、白いプレートが点在する様は訳もなく寂寥を誘う……
この雑草のような小さな草花と、頭上に聳え立つ科学の象徴のような街の建物。その、比較のしようもない対照が、自分たちと彼との、どうにも埋められない<隔たり>と似ている…。
膝の上のサンドイッチに目を落とす。
……食べたい、なんて思えなかったが、食事を抜けば体力が落ちて仕事に差し支える。生きて行くためには、この仕事を休むわけにはいかない……
雪乃は仕方なく、包み紙を剥き始めた…… と。
「…コーヒー、飲むかい?」
少し離れた所から聞き覚えのある声がした。
驚いて顔を上げると、へんてこりんな黒縁メガネをかけてコートを羽織った島が、菜園の入口のところに立っているのが目に入った。缶入りのコーヒーを2本、手に持っている。
「………島くん…!」
「…ごめん。…連絡も何もしなくて…、悪かった」
ううん、と首を振った。
まさか、来てくれるなんて……!
彼の格好は、変装…、のつもりらしかった。
「…そのメガネ、…似合わない、すごく…変」
来てくれて嬉しい、というつもりが、戸惑いのあまりにそんな言葉になって出てしまう…
「変?やっぱり?」
島は、ははは、と笑いながら缶コーヒーを1本、ベンチに座る雪乃の手に持たせ、その隣に腰かけた。「でも、コイツのおかげで誰にも気がつかれなかったよ」
間近で見たら、尚更ヘンだった。
「……すっごい不細工に見えるよ…」
「なんだと…」
ブサイクなんて、初めて言われたな〜。
苦笑している彼に、雪乃は目で問い掛けた——
どうして来てくれたの。
あたしを馬鹿だと思ったでしょう?
変なこと言われて、どん引きしたよね…?
どうして笑ってるの、…あたしのこと、呆れてるでしょう…?
何も訊けずにいる雪乃の隣で、島は笑いながら缶コーヒーの栓を開ける。
「……歩くん、もう移転したんだね」
病室にいなかった。さっき、ちょっと覗いて来たんだ。
君の希望を叶えて上げられなくて、…悪かった、と思ってる。
「正直さ… ごめん。結婚とか…そういうことは、もっと…慎重に、ゆっくり考えなくちゃならない事だと思うんだ」
「…ごめんなさい!」
もういいの!そう言わんばかりに謝る雪乃には答えず。
島は続けた…
「あ、でも。……雪乃のことは、好きだ。…ホントだよ?」
でさ。
俺……考えたんだ。どうするのが一番いいのか。
「……雪乃は、歩くんのそばにいたいんだよな?」
一緒にいたいんだよね?最初っから、君はそう言ってたもんな。
何か面白そうな計画を話すみたいに、島は雪乃の方へ上半身を屈めた。
君があの子を引き取らなくても、そばにいてやれる方法はある。
「……え……」
「…俺と結婚したいとかいうのは、その次…の次、くらい、じゃないのか?」
「えっ…」
「まったく、思い詰めると前しか見えないんだから…」
苦笑しながら島がコートのポケットから取り出した一枚の紙に、雪乃は目をとめ、…ついで息を飲んだ。
「それは…」
「ちょっと早いけど、クリスマスプレゼント。…俺、もう少ししたら、また宇宙へ出なくちゃならないから……。次、還って来れるのは多分、来年の春だろうし」
「だって、それ…」
島が開いてみせたその用紙には、雪乃の名前と、歩が移転した養護施設に併設の、医療施設の名が記されていた。
——雇用契約書である。
「ここで看護師を一人、急募しているそうだ。だから、…今日にでもここを辞めて、そっちへすぐに移ればいい。…寮は歩くんの施設と同じ敷地内にあるそうだ」
「………」
島がほら、と寄越したその契約書を上から下まで目で辿って行くうちに、雪乃の目から涙が零れた…
「…大企業に、知り合いがいる、って言っただろ」
「島くん…」
「飄々としてるけど、いい奴なんだ。これと同じダサイ眼鏡をかけててさ。…二つ返事でコネ付けてくれた」
「………」
「俺の彼女だから、丁重に扱ってくれ、って頼んでおいたよ」
「………」
「それでも多分、今より給料は低くなると思う。縁故で入るわけだから、風当たりも強いかもしれないぜ。…でも、自分の力で、ちゃんと仕事して、……歩くんを引き取れるようにならないとな…」
ありがとう…。
「なんだよ、泣いてちゃ何言ってるかわかんないよ」
「……りがと…」
「…なに?」
「……しま、くん」
昼休みのサンルームである… 誰もいない、というわけではなかった。白衣のナースが、来客の男性の肩に顔を埋めてさめざめと泣いていたら、かなり目立つだろう……
(……でも、いいや)
島は、黒ブチの眼鏡のつるをかけ直し……ぐすぐす言っている彼女の肩を抱いた。
……ちぇっ。
もう一回くらい…デートしたかったな…。
雪乃がここを辞めて遠く離れた勤め先へ行ってしまえば、簡単には会えなくなる。自分にも、建造中の輸送艦のテスト操縦のために防衛軍工廠へ出頭せよと言う指示が出ていた……出航は10日後だが、実質あと2日もすれば彼女とはしばしのお別れだった。
「……キスして、いい?」
「…ここで?」
通りがかった見舞客の一人が、サンルームの片隅のベンチにいる迷惑なカップルを横目で見ながら咳払いした。
(かまうもんか)
雪乃が躊躇いがちに顔を上げた拍子に、メガネを外し。
ちゅ。
そのおでこに軽くキスをした——
「…島くん」
「困ったことがあったら、いつでも力になる。……手紙、くれよな」
それだけ言って、ベンチから立ち上がった。
自分の後を追って立ち上がろうとした雪乃の、膝の上を指差す。
——お昼。
食べちゃえよ。
じゃあね、と手を振って……背を向けた。
黒ブチメガネ、こいつは眼帯よりも人相変わるな……、と自分に苦笑して、
——島はサンルームを出た。
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